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2015年06月01日

イスカ~製品へのこだわり~その4



ダウンの性能を評価する基準の一つが、その復元力を数値で表した「フィルパワ-」です。

フィルパワ-とは、1オンス(約28.4g)のダウンをシリンダ-内で圧縮し、一定の温度、湿度の条件下で、それが何立方インチに復元するかを測定したものです。

フィルパワ-の数値が高いほどダウンの空気含有量が多く、その大量に含まれる空気の断熱効果によって保温性に優れるため、数値の高いものほど良質なダウンと言うことになります。

一般的に550フィルパワ-以上で高品質とされ、700~800フィルパワ-のものが最も良質とされています。

私たちが、フィルパワ-の測定を依頼しているIDFL(International Down and Feather Laboratory)は、
1978年に設立された羽毛の専門的な品質検査機関で、設立以来45の国々の700を超える企業が利用しており、世界的に最もメジャ-な研究施設のひとつです。
  
タグ :イスカ寝袋

Posted by natulog@はじめての! at 12:17Comments(0)イスカ

2015年06月01日

イスカ~製品へのこだわり~その3



ダウンとは、水鳥の胸の辺りに密生しているタンポポの綿毛状の羽で、いわば水鳥の肌着にあたるものです。
このボ-ル状の羽枝が空気をたっぷりと含み、保温性とロフト(カサ高)を生み出します。

なかでも良質のダウンは、1羽の水鳥から約10グラム程度しか採取できません。
また、真ん中に軸のある羽はフェザ-と呼ばれ、ダウンとは区別されます。

長さが6.5センチ以上のものをフェザ-、6.5センチ未満のものをスモ-ルフェザ-といいます。
水鳥から採取された羽毛は洗浄し、乾燥した後、風力によって選別されます。

一定の風をあてて、最も遠くのゾ-ンまで飛んだものから順にダウン、スモ-ルフェザ-、フェザ-となります。寝袋やふとんなどに使う羽毛に含まれるのは、ほとんどがこのスモ-ルフェザ-です。

ダウン100%の製品を作ることは技術的に不可能ではありませんが、安定したロフトを確保するために、ある程度のフェザ-が混ざっている必要があります。一般にダウンの混率が85%を超えれば上質とされています。

ダウンを採取する水鳥はグ-ス(ガチョウ)とダック(アヒル)に大別されます。

グ-スは野生の雁を家禽化したもの、ダックは野生のマガモを飼い馴らしたものです。
元は卵や肉を取るために飼育が始まりましたが、その副産物として羽毛が利用されるようになりました。

現在の主要な原産地としては、中国、台湾、ポ-ランド、ハンガリ-、フランス、カナダなどが挙げられます。
人間との関わり合いの歴史は非常に古く、中世以前のノルウェ-の王族や貴族の墓から羽毛が発見され、当時からすでに寝具として利用されていたのではないかと推測されています。

一般的には、カサ高性や回復性、保温性に富んだグ-スダウンの方が高品質とされています。これは通常、グ-スの方がダックに比べて体格が良く、採取できるダウンボ-ルもより大きくなるからです。

ダウンの採取方法には、機械によるマシンピックと熟練工による手摘みのハンドピックとがあり、ハンドピックの方がマシンピックに比べてダウンの損傷が少なく、ダウンボ-ルの良好な状態での採取が可能です。

ダウンの品質は、見た目の色やその産地などによってのみ決定されるものではありません。そういった要素も確かにありますが、水鳥の管理方法、飼育期間、前述の採取方法の違いによるものの方がむしろ大きいのです。
しかしながら、管理方法などの違いというのは、目に見えにくい部分でもあります。

そこで、品質を判断する上で一つの目安とされているのが「フィルパワ-」(FP)です。
FPとはダウン自身の持つ復元力をあらわす数値で、550FP以上なら高品質とされ、最高品質のもので800FPといわれています。
この数値が高ければ高いほどダウンの空気含有量が増え、保温性が高まります。

従って、FPの高いダウンを使用することで、同じ保温性を確保するために必要なダウン量が少なくなり、装備の軽量化やコンパクト化にも役立つことになります。

イスカでは、世界的に最もメジャ-なアメリカ方式を基準とし、米国ソルトレ-クシティ-にある専門機関、IDFL(International Down and Feather Laboratory)に依頼してFPの測定を行なっています。
  
タグ :イスカ寝袋

Posted by natulog@はじめての! at 12:16Comments(0)イスカ

2015年06月01日

イスカ~製品へのこだわり~その2



全モデルに伸縮性のあるゴム製のドロ-コ-ドを標準装備。
出入りがし易く、コ-ドストッパ-により暑い時の温度調節も簡単で、緊急時の脱出にも配慮しています。

低温時は肩より上部からの放熱への対応がポイントです。
ゆったりとした立体的なシルエットのフ-ドは、圧迫感が少なく、保温性にも優れています。

低温時向けモデルにおいては、保温性の向上と冷気の侵入を防ぐために、保温材の詰まった「ドラフトチュ-ブ」をジッパ-の内側に配置しています。

また厳冬期モデルでは、ドラフトチュ-ブをダブルでセット(ダブルチュ-ブ)し、さらに首元からの放熱を効果的に抑えるために装備された「ショルダ-ウォ-マ-」がマフラ-の役割を果たしています。

寝袋のジッパ-故障は時として大問題です。
全モデルにおいて、スム-スな動きと耐久性に定評のあるYKK製コイルジッパ-(ジッパ-の噛み合わせ部分が樹脂製のもの)を採用しています。

ジッパ-部分には、モデルに応じてナイロンテ-プやスレッド(糸)を内蔵したジャムストッパ-を配置し、生地への噛み込みはほとんどありません。

特に寒さを感じやすい足元部分は、睡眠中に窮屈感のないようにゆったりとした設計を基本にしながら、他の部分よりも多めの保温材を封入し、快適睡眠のために配慮しています。
さらに厳冬期モデルでは、暖かなポリエステル起毛素材「バ-モス」で足元を補強しています。

力の弱い方や女性にも収納しやすい2段階式のスタッフバッグが標準仕様です。
出発の朝に寝袋が収納できなくて困ることもありません。
  
タグ :イスカ寝袋

Posted by natulog@はじめての! at 12:14Comments(0)イスカ

2015年06月01日

イスカ~製品へのこだわり~その1



私たちのモノづくりは寝袋から始まりました。
地味な存在ながらもアウトドアでは不可欠で重要な装備です。

登山やキャンプをはじめ、すべてのアウトドアで活動する方々に「軽量・コンパクトでより快適な睡眠をお届けすること」を最大の課題として、その基本は他のモノづくりにも引き継がれています。

一日の行動で疲労した 身体に、ゆったり暖かく快適な睡眠を与え、さわやかな朝を迎えることは、疲労の回復にも翌日の安全な行動にとっても欠かせない条件です。

安全で楽しい登山やアウトドアライフのために、私たちは、HEARTY & BASIC(基本に忠実、心あるモノづくり)を課題に、今も、そしてこれからも実際に使われる方々の立場に立っ たモノづくりを続けていきたいと考えています。

開発されたスリ-ピングバッグが実際にアウトドアで使用された場合に、設計通りの性能を発揮するかということは非常に重要なポイントです。

『東レ人工気象室・テクノラマ』での研究室テストにおいては、テスタ-に取り付けられた温度センサ-で測定される数値的デ-タの収集、またサ-マルイメ-ジャ-による放熱状況などの客観的測定と、テスタ-への問診による体感的な情報のチェックを2日間にわたって行います。


『テクノラマ』は地球上のあらゆる気象環境を再現することが可能な研究施設です。
私たちの場合は、雪上での幕営を想定し、室温は-20℃に設定され、さらに25cmの積雪をつくりだした状況でテストが進められます。

一日の行動で疲労した身体や不安定な天候、夜明け前の厳しい冷え込み、スペ-スの限られた窮屈なテント内部、湿気を帯びたスリ-ピングバッグでの使用感など、研究室の中だけでは決して想像できない状況こそが、実際にアウトドアでお使いになられる方々にとっては最も基本的で重要な問題です。
これらの要素を確認するためには、実際のフィ-ルドにおいての体感的なテストも不可欠な条件です。

寝袋を使用する場合において、予想される状況に最適なモデルを選択することは重要なポイントです。

保温性の高いモデルは低いモデルよりも重量やカサ高性において負担となりがちで、それはザックの重さや背負いやすさにも影響します。大きくふくらんだザックはバランスが悪いばかりか、風などの影響も受けやすく危険でもあります。

また、中わた素材でいえば、軽量で保温性能にも優れた『ダウン』は湿気に対する弱点があり、逆に『化学繊維』は濡れた後も乾きやすい反面、どうしても重量増となります。
  
タグ :イスカ寝袋

Posted by natulog@はじめての! at 12:10Comments(0)イスカ

2015年06月01日

カーメイト歴史

ヒストリー
・1965東京都台東区にてカーメイト創業
・1976スキーキャリア発売
・1985バイアスロン発売
・1986チャイルドシート発売
・1986モータースポーツ用品発売
・1986システムキャリア発売
・1995ロッドホルダー発売
・2000ハロゲンバルブ発売
・2001セキュリティー バリケード発売


ヒストリー



ヒストリー
カーメイトの歴史は、豊かなカーライフの進化といえる。
まだクルマを所有するということが、高嶺の花であった1965年に、カーメイトを創業した。

当時運転席に『ヘッドレスト』は存在しない。

『もっと、安全で快適な運転』ができないだろうか・・・。現社長村田隆昭は考えた。
そして創り出された商品それが日本で最初の、『ヘッドレスト』だった。

それは、『衝突時のむち打ち症を防ぐ為の商品』となり、発売と同時に『安全』で『快適』なカーライフを提案した初めての商品だった。

単なる『移動手段としてのクルマ』という枠を超えて、新しいカーライフの提案は、確かな『豊かさ』を感じさせる予感がした。



70年代に入ると、カーメイトは時代に先駆けて、ドアミラー、ルームミラーというカーアクセサリーの商品郡等、次々と商品を開発。

中でも、カーアクサせりーでは時代のトレンドを予測し、より使いやすく、感性豊かな質の高いデザインをいち早く取り入れた。カーライフをトータルに演出する新しい市場を創造し、カー用品業界で常に新しい商品の開発に挑むメーカーとして信頼を築きあげていく。


音楽・スポーツ・映画・ファッション・・・そして、クルマ。
様々なシーンの中でクルマもデザイン・車種が豊富なバリエーションの時代を迎えていた。

そこでカーメイトは『仲間と楽しむカーライフ』を提唱する。

当時、スキーを楽しみたい若者・家族にとって『スキーの板をゲレンデまで運ぶ』ことは、至難の業だった。

でも、確かなニーズがある・・、とカーメイトは予測した。
市場調査を繰り返し、現場でのニーズを確信した。

カーメイトは、いち早くクルマの屋根にスキーの板を積む為の、『スキーキャリア』を企画・設計。まさに時代が必要とした市場が、そこにうまれた。

そして同時に、ゲレンデまでの雪道を『安全で快適なクルマの走り』を提案することが、カーメイトには不可避な課題となった。従来の『金属チェーン』とは異なり、人々が求めていた『誰もが簡単に装着できて、走行中も嫌な金属音がしない』まさに、当時は夢のような『タイヤチェーン』への開発に挑んだ。

設計者は、非金属チェーンの『素材』選びからこだわった。本当に安全性に優れた耐久性と、快適な走りの二つのこなせる商品はできるのか・・・。

タイヤと雪道。乾燥路の接地面・スピード・耐久性等課題は溢れんばかりだ。
それら一つ一つの難題を、様々なテストと検証を繰り返し、非金属タイヤチェーン『BIATHLON(バイアスロン)』は誕生した。

2005年に『200万ペア突破!』という販売実績が、信頼の証となっている。



その後さらにカーメイトは、様々な遊びの用途に応じた『アタッチメントの装着』(スキー・スノーボード・サーフィン等)となる『システムキャリア』を開発。 

さらに、F1の大人気を背景に、モータースポーツファン待望ともいえる、「RAZO(レッツォ)」がデビュー!

実際のサーキットでの走行テストを繰り返して生まれた「RAZO(レッツォ)」。
『ヒール&トゥ』の感触が、エンスー系の若者たちをうならせた。

また時代に先駆けて開発を進めてきた『チャイルドシート』等様々な市場に『カー用品の総合メーカー・カーメイト』はチャレンジを続けていく。

そして、カーメイトスピリットである『カーライフへの挑戦』は世界に広がる。

アメリカ、香港に子会社を設立。その後、中国に工場を新設する。








「エキサイティング(わくわくする)」
「アミュージング(楽しむ)」
「ユースフル(役に立つ)」
「マイフェバリッツ(私のお気に入りの)」


21世紀となり、クルマ社会は環境対策や省資源など様々な課題への取り組みが始まる。

インターネット・携帯電話等、通信手段は劇的な変化が起きてそれは、これからも更なる進化が予見される。
少子高齢化等、ライフスタイルの変化の中で、カーメイトは新たなるカーライフの提案を探求し、『4つのカーライフ創り』に今日も挑む。

『CREMTE』。理念のもと、製品開発から設計・製造・販売・サービスとスタッフ一人一人が明日の豊かなカーライフへの『チャレンジ』にまい進している。
  

Posted by natulog@はじめての! at 12:04Comments(0)ブランドヒストリー

2015年06月01日

ガーバー歴史



1939年ジョセフ・ガーバーはクリスマスのプレゼント用に25セットの料理用ナイフをナイフメーカーに作らせました。このナイフがとても好評で、本格的なナイフメーカーへと転身してゆきます。
  
従来のデザインとはかけ離れたユニークなデザインを採用し、しかも高品質なGerberナイフは瞬く間にアメリカ市場でトップブランドとして認知されるに至ります。 これを物語る事実の一つとして、Gerberナイフはニューヨークの有名な現代美術館にナイフとしては唯一展示されています。

Gerberは創業の段階からトップナイフデザイナーと積極的にコラボレートし、ファクトリーナイフの標準品質へと進化して行きます、有名なナイフメーカーである、アル・マー、ボブ・ラブレス、ポール・フェルマン、ブラッキー・コリンズ、ウイリアム・ヘンリーJr. 並びにエマーソン等のそうそうたるデザイナーがGerberナイフのデザインを手がけました。
 
今日、Gerberは創業期のポリシーを堅持し斬新なデザイン、高い品質に拘ったナイフ造りを続けています。
 
2003年には次世代のマルチツールとしてRecoil(リ・コイル・オートプライヤー) 【 ガーバーマルチツール一覧 】 を市場に投入しました、そして2004年にはフラッシュライト、さらにはナイフとライトを融合させたユニークなNautilus(ノーチラス・ツール)をリリースし高い評価を得ています。
 
常に新しいテクノロジーを積極的に取り込み、革新的なデザインで新しい商品を開発する、これがGerberの創業以来の精神であり、業界をリードし続けるエネルギーでもあります。


  
 

 
 

● 1939年ジョセフ・ガーバーがGerber Legendary Bladesを創業。
 
● 1966年MKⅡ(マーク2)コンバットナイフを開発、ベトナム戦争で正規軍用ナイフとして高い評価を受ける、これにより軍用ナイフメーカーとしてのナンバーワンメーカーとしての地位を確立。
 
● 1968年Gerber Armohide(アーモハイド)ハンドルのナイフを開発。
 
● 1981年Gerber マイカルタハンドルを採用したLSTシリーズ
をリリース。
 
● 1984年Gerberナイフ用として初めてインジェクション・モールド・ハンドルを採用。
 
● 1991年Gerber Folding Gator(フォールディング・ゲーター・シリーズ)でナイロンとクラトン・ラバーの一体型インジェクション・モールド・ハンドルを開発。
 
● 1991年Gerber Multi-Plier(マルチ・プライヤー)
をリリース、この商品はわずか2年後にGerberを代表する売れ筋商品になる。
 
● 2002年The Silver Trident(シルバー・トライデント)ミリタリーナイフを開発、アメリカ軍で採用される。
 
● 2003年The Recoil(リコイル・オートプライヤー)そしてGerber Emerson Alliance(エマーソン・アライアンス)ナイフを
リリース。
 
● 2004年フラッシュライトメーカー、CMG(USA)を買収、ユニークなフラッシュライトシリーズをリリース。










 
 

当社の事業は製品を製造すること、我々の情熱はファンを獲得すること
ガーバーではこの2点は対になっています。実は、いくつかの(もしくは、何百もの)
ストーリーが寄せられて初めてガーバーはガーバーになり得るのです。

ボビー・キングより
ガーバー社様へ

私は消防士で、ガーバーゲーターと、マルチツールを持っています。


  
ある夜、私たちは建物の火事現場に呼び出されました。私はレスキュー隊に所属していました。2階の床の一部が崩れ、私はその間に落ちてしまい、仲間とはぐれました。私は、狭い場所に閉じ込められ、火と煙に包まれました。
 
私の斧は3フィートはなれた所にあり、使えませんでした。私に残されたのは、生きる意志とガーバーのマルチツールだけでした。それ以来、ガーバーのマルチツールは私の道具から欠かしていません。
 
マルチツールのニードル・ノーズ・ヘッドを使って損傷した床の一部に穴を開けて、その場所から何とか抜けだせました。ガーバー社製のツールは私の命を救ってくれてそれ以降もずっと働いてくれています。
 
  
常に、私を救ってくれたそのツールとゲーターを携帯していて、新ツールも道具箱に入っています。ガーバー社の皆様は真のヒーローです。素晴らしい製品を有難うございます。

 
匿名の海軍シール部隊員より
2004年12月12日から2005年12月4日までのイラクで使用された武器LMF2について訓練や戦闘など、どのような場面においてもLMF2は使えました。
 
この武器は60回の演習、130回の実戦で使用され、その成果は完璧でした。LMF2の外側カバーのデザインは演習や実戦のどの場面にも合っておりPSDキットにも、また戦車の装甲にも合います。
 
武器本体はイラクの気候においても傑出した性能を発揮しました。メンテナンスも心配なく、研ぐ為の時間を割かなくても刃の鋭さが維持されました。

この点は多忙でスケジュールをこなさなければならない私たち隊員にとっては重要です。この武器は多岐に渡る用途があり、演習と実戦において様々な状況で使用していました。
 
このツールは皆様にお勧めします。戦闘に出る人だけでなく、狩猟をする人、アウトドアーライフを送る人達にもお勧めします。これは完璧な武器です。
匿名希望の衛生兵より
私は、ボスニアヘルツェゴビナに配置されている兵士です。
 
毎朝、軍服を着る際はガーバーマルチプライヤーをベルトに付け、ガーバーエアーレンジャーを前ポケットに入れます。
  
マルチプライヤーは私の部隊のHumvee(High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle = 高機動多用途装輪車輌)のメンテナンスから医療機器の修理に至るまで、あらゆることに使っています。
  
エアレンジャーも木の細い枝を切ったり、手紙の開封に至るまで様々な用途に使っています。また、MRE(戦闘糧食)を食べる時にも役立ちます。数ある道具の中からガーバーのマルチツールを選んだのは、耐久性があり、使用範囲の広さや、片手で開けられるからです。
  
エアレンジャーを選んだのは、形が細く刃がのこぎり状だからです。片手で素早く開けること、そして、かなり酷使した後もまだ鋭い切れ味には驚きました。
  
エアレンジャーの2倍の価格のナイフを使ったこともありますが、これほどまでに便利ではありませんでした。ナイフが必要になってから2秒以内に用意が出来なければいけないのです。私のエアレンジャーは必要だと考え終わる前に手の中で開かれています。
 
 

   
 

彼はOSS(CIAの前身)の初期メンバーの一人。第二次大戦中、彼は任務で敵部隊の背後に潜む極秘作戦なども経験。
  
1998年84歳で没するまで彼はClose Quarters Combat特殊部隊の大家として国際的に名高かった。彼が書いたトレーニングマニュアル、ハンドツーハンド・コンバットは今尚使われている。
  
アップルゲート・フェアバーン・コンバット・フォルダーはミリタリーナイフを追求した一品で、現在も特殊OPS部隊で使われている。


   
 



1986年、エディーはオレゴン州立大学より機械工学の学士を授与される。そして、8年間を、航空宇宙産業用の製品のデザイン、製作、改善をする商品産業エンジニアとして費やす。
  
その後、本当にやりたいことは一般消費者のための製品デザインだと気づき、エディは1994年シニアデザインエンジニアとしてガーバーに入社。彼とそのチームは今日に至るガーバーツールのラインを立ち上げた。
  
彼の築き上げた方向性は、プロスカウトマルチプライヤー600・コンパクトスポーツマルチプライヤー400・レジェンドマルチプライヤー800・デモリッションエクスプローシブテクニシャン・マルチプライヤー600・アーバンレジェンドマルチプライヤー700・フィッシャーマンマルチプライヤー600、そして最新のリコイルオートマティックプライヤーに活かされている。

ユーティリティーやデザインにおける特許など多くの革新的な特許を獲得している。今日デザインエンジニアリングマネージャーとして、エディのチームはナイフ・ライト・ハイドレーション・マルチツールにおいてすばらしいデザインと技術革新を市場にもたらし、それは高い社会的評価を得て、ガーバーの成長に貢献している。

   
 

アーネスト・R・エマーソンは戦術兵器としてのナイフのデザインや使用の権威である。世界的な、ハンド・ツー・ハンド・コンバットのトップインストラクターでもあり、何千もの軍や警察関係者に有事でのナイフの使い方を教えていた。
  
エマーソンはガーバー・レジェンダリー・ブレードとコラボし、ガーバー最初の‘オートマチック’を作った。それが、ガーバー・エマーソン・アライアンスである。
 

   
 

軍で、このオレゴン生まれのジェフはメカニカルのエキスパートとしての訓練を受けた。そしてパナマに駐屯し軍用機のメンテナンスとツール製造に携わる。 
 
その後、オレゴン州立大学より製造エンジニアリングの学位を授与される。ジェフはボーイング、オレゴンメタラジカル、富士通で働き、1998年ガーバー入社。
  
2000年にシニアメカニカルエンジニアに昇進、新製品のデザイン開発に携わる。彼のデザインは、フリーマンフィックストブレード・LMFⅡに活かされ、ガーバーエマーソンアライアンスに参画した。

フィールドアンドストリームのベスト・オブ・ベスト賞、IWAインターナショナル・ナイフ・アワードを受賞。

   
 

ハルはフランクリン・マーシャル・カレッジで物理学学士を取得、航空エンジニアリングにおいてコーネル大学で修士号取得。その後8年を圧力洗浄と浄水設備のデザインに従事。
 
2003年ガーバーティームにシニアメカニカルエンジニアとして参加。ディーゼルと、ショートカット・マルチツールを監修。

  
2005年1月にはデザインチームに参加。現在は次世代のマルチツールをデザインしている。使いにくいツールやデザインの問題点をいくつも解決。物理学、航空宇宙学の知識が製品デザインの探求を可能にしている。
   
 

ビルはオレゴンのロッガーとしてスチール研磨を学んだ。オレゴン大卒の彼のデザインは世界中で需要がある。
 
人間工学に基づいたその製品は国内外において特殊部隊などへ大きく貢献している。彼のナイフは陸海軍及びSEALS(米国海軍特殊部隊)でも携行されている。
  
晩年のコル・レックス・アップルゲートと共にアップルゲート・ファーバイン・コンバット・フォルダー・シリーズをデザインしている。
 
 
共に働いたチーフ、ジム‘パッチーズ’ワトソンとUltimate Combat diveツール・ナイフをデザイン。それがシルバー・トライデントだ。他にも、エアーレンジャーシリーズ、エアフレームシリーズ、ハーシーハンターなど野外のヘビービューティー用のデザインを行った。
  
   
 

スコットはクラッシック・スクール・オブ・ハード・ノックス・エンジニアである。もし彼だけではエンジニアリングの問題が解決しない場合、彼は解決できる人材を幅広く知っている。
 
彼のリサーチ力と粘り強い仕事ぶりはガーバーライトの強さに貢献している。彼は、科学的・技術的に探究心旺盛な生粋のオレゴニアン。オレゴン・インスティテュート・オブ・テクノロジーにより、メカニカルエンジニアリングで学位を授与されている。
  
26年間、技術との格闘し、今そのリサーチと製品デザインを製造、発展に携わり始めている。
  

   
 

リック・ハインダラーは1987年からオハイオのウースターのショップでカスタム・ナイフを作っていた。彼の最初の試みはストレートフィックスドブレードのナイフ作りだった。次第に彼はフォールディングナイフのデザインと製作をするようになり、今では、そのユニークなデザインで知られるようになっている。
  
近年、彼のデザイン原点に戻り、戦術兵器としてのナイフを作っている。モダンデザインとの融合しながらも、実用的である。
  
ガーバー・レジェンダリー・ブレードによって作られている、ザ・ゲームプロは商業ベースで生産された彼の最初のナイフである。

   
 

リッチはガーバーデザインチームでは一番のニューカマー。2005年春からキャリアをスタート。彼の担当はポータブルライト製品。
 

ガーバー以前は、デザインコンサルティング事務所でインテル・ヒューレット・パッカード、インフォーカス、ヤキマ、その他多くの製品デザインを手がけていた。
 
それ以前は商業用軍用のクレーンなどや、オフロードでのジープのサスペンションシステムのデザイン開発をしていた。また、ナイキやコレデンスやハイスターで仕事もしていた。
 
これらの経験やデザインスキルがライティングの問題解決や斬新なものを作り出すことを可能にしている。
  

Posted by natulog@はじめての! at 12:00Comments(0)ブランドヒストリー

2015年06月01日

ガーミン歴史

ガーミンは「簡単であるが詳しい商品作り」と「自分達の製品の革新と利便性が顧客の人生をより良いものにする事」を目標に1989年米国カンザス州にて、GPS機器の設計をはじめました。

そしてそれ以来、優れた顧客サービスで革新的な製品を支え、デザイン、性能、価値を顧客に提供し続け、常に革新をし続けている比較的新しい会社です。

湾岸戦争においてガーミンはその実用性において軍に受け入れられ、活躍し、GPS全体の地位向上にも役立ちました。



ガーミンはGPSイノベーションのリーダーであり、GPS初の技術を提供し続けています。

ガーミンはここ10年間で航空GPSを使用し航空機の非精密進入(non-precision approach)(航空用語で方位もしくは位置の情報のみを計器から得て飛行場に進入する)着陸を成功させ、そしてその技術はアウトドアフリークに最小のGPSを提供することを可能としました。
ガーミンは顧客の理念にそったGPSをデザインすることを心がけます。

簡単な操作、論理的なメニュー、スマートな動作、そして分かりやすいマニュアルがすぐにみなさんをGPSに習熟させます。

みなさんが他社の他のGPSを手にとって比べた場合、ガーミンが何故世界のベストセラーであるか理解するのにはさほど時間がかからないでしょう。
ガーミンの技術革新は瞬時に衛星信号の位置を見つけるGPS受信機を開発し、それらの信号を固定化し、 あなたが行くところを追跡して表示します。

また受信機に即時のアップデート機能、滑らかなスクロールとリアルタイムな地図表示を可能とするための処理能力を組み込みました。
全てのガーミン製品は最も過酷な規格を満たすように設計されています。
顧客の払う金銭の対価としての性能に関しては常に最大限になるよう製造しています。
ガーミンはGPSでのベストを提供することをこころがけ、 疑問点の多くを解消することが出来ます。
Garmin. We'll Take You There._
  

Posted by natulog@はじめての! at 11:49Comments(0)ブランドヒストリー

2015年06月01日

ビクトリノックス歴史

 
ビクトリノックス(VICTORINOX)の刃物工場は1884年、カール・エルズナーによって創業され、今日では従業員950人を擁し、シュビッツ州で最も重要な工場となり、ヨ-ロッパ最大の刃物工場となりました。

ビクトリノックスの成功物語は、帽子職人の息子であったカール・エルズナーが、修業を終えて、シュビッツの近く、イーバッハに小さな刃物工場を始めたところから始まります。

自ら主導して “スイス刃物職人組合” を結成し、1891年10月、カール・エルズナーは、初めてスイスアーミーへソルジャーナイフを納入しました。こうして必要な売上を確保し、これといった産業の無かった地域に仕事を創ることができました。

結果として、当時貧しい生活を送っていたこの地方の人々の一部が、移民として土地を離れずにすみました。仕事はまだ利益を生むほどではありませんでしたが、将来の成功の基礎となりました。 

ソルジャーナイフの後には、さらにエレガントなモデル、学生ナイフ、見習い士官ナイフ、農民ナイフなどが続きました。

やがて2枚の背バネに6つのパーツを持つナイフのアイデアがひらめきました。この発明によって、カール・エルズナ-はもっと軽くて、エレガントなナイフが欲しいという将校の希望をかなえることができました。 
 
 
 

このオフィサーナイフは1897年6月12日、公式に特許登録されました。その後このナイフは、歳月を経て真のマルチツ-ルへと発展しました。最初の2枚のブレードにつけ加えられていたのは、ドライバー、カン切り、コルクせん抜きと穴開けでした。

その後、消費者のニーズに合わせて機能が追加され、最上級モデルのスイスチャンプは64の部品から組み立てられており、33の機能を持っています。スイスチャンプは、64のパーツから作られていますが、わずか185gで、手のひらに収まります。

製造には450以上の工程を経ています。これはもうポケットナイフというよりは、最も実用的なマルチツールです。


オフィーサーナイフは、スイスアーミーの制式採用品とはなっていません。このためビクトリノックスでは、製品をオフィサーナイフと呼ぶ時にはソルジャーナイフと区別して呼んでいます。

だからといって、これが成功の障害になるようなことはありませんでした。アーミーの多くの士官達が、個人的に刃物店でこのナイフを購入したため、この役に立つポケットツールはすぐに大成功の製品となりました。

1909年に創業25周年を記念して、カ-ル・エルズナーはナイフの赤のセルハンドルにスイス十字を入れました。こうして自ら発明した製品をドイツ製のイミテーションと区別することにしました。

同じ年、彼の母が亡くなりました。母の献身的な働きを思い、カール・エルズナーは母の名前、ビクトリアを会社の名前にしました。この名前はすぐにナイフ製造分野におけるスイスの品質と精密さのシンボルになりました。ビクトリアナイフは各地の展覧会で賞を獲得しました。

 
 
  

1921年に発明されたステンレススチールが早くも、1923年にはイーバッハにもたらされ、ステンレス製のビクトリアナイフの名前は、世界的なステンレススチールの国際的な呼称である “inox” と組み合わされ、この二つの名前から、今日の会社名であるVICTORINOXが誕生しました。

第二次世界大戦後、ビクトリノックスのポケットナイフが、アメリカ陸軍、海軍、空軍のPXストアーに大量に納品されました。この結果“スイスアーミーナイフ”という呼称が生まれ、ビクトリノックスナイフの象徴となりました。

一方で、イミテーションから自社の製品を守るため、さらに新たな取り組みが必要でした。ビクトリノックスは、同じスイスの競合メーカーであるウェンガ-と共同で、外国メーカーがナイフにスイス十字を入れることを禁止する裁判所の命令を得ました。


イーバッハの工場では、オフィサーナイフが1日25,000本、その他小さなクラシックやスイスライトをはじめ300種類以上のポケットツールが30,000本生産されています。 

さらにキッチンナイフやプロ用のナイフなど45,000本も作られています。生産量のおよそ90%が世界100カ国以上へ輸出されています。

ビクトリノックスの製品は、国際的に有名な会社の広告のモチーフとして使われるケースが度々あります。これは、ビクトリノックスががもつ品質と、幅広い使いやすさを象徴するものとして世界的に知られていることが背景となっています。 

また、ジョンソン大統領以来、アメリカの歴代大統領は、ビクトリノックスのポケットナイフに自身の署名をゴ-ルドで名入れして、ゲストに贈っています。NASAではビクトリノックスナイフはスペ-スシャトル乗組員の大事な標準装備品のひとつに採用されています。

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1951年に特許を取得したビクトリノックスのカン切りは品質について、ほかのポケットナイフに付属するカン切りの追随を許しません。
  

カン切りの先端は、マイナスドライバ-(小)となっていて、プラスネジにも対応可能です。
  

ビクトリノックスでは、コルクせん抜き側のアルミディバイダ-には、きわめて硬く、キズのつきにくい表面処理である、アルマイト加工を施しています。この表面加工処理をすることによって、パ-ツのコストは3倍にもなります。コルクせん抜きに納められている眼鏡ドライバ-はビクトリノックスの特許です。
  

リ-マ-(穴あけ)は研削工程をさらに2工程追加することによって、最も使い易い形状に加工されています。
  

マイナスドライバ-(大)は開いた位置では背バネの力が大きくかかります。先端はナイフの中心線にたいし、89度にセットされています。これによって、使用中に閉じることを防いでいます。またアングルドライバ-としても使用可能です。
  

せん抜きはいろんなびんのせんに対応できるようにデザインされています。
  

ビクトリノックスののこぎりはいちばん長くなるようにデザインされています。のこぎりの刃はすべて両面に刃付けがしてあります。金属のこぎり、金属やすりは高い表面硬度を持ち、長く切れ味を持続します。
  

最終の品質検査部門では90人が品質検査に当たり、完全な製品のみが出荷へまわります。この製造の最終工程では、ナイフは1本ずつ各ブレ-ド、機能を全てマニュアルでチェックされ、完全な品質を保証しています。ビクトリノックスは材料や、製造工程の欠陥による故障にたいし、永久保証しています。

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2015年06月01日

新富士バーナー歴史

▼純国産の信頼と火力、炎の総合メーカー新富士バーナー
マイクロレギュレーターシリーズ
ニーズとタイミングから純国産の火を守り続ける
新富士バーナーは、1978 年に工業用バーナーの製造会社として設立されました。
設立当初は配管工事等に使用するプロパンバーナー、そして雑草処理に使用する草焼灯油バーナーを主な製品として製造・販売していました。
新富士バーナー社がアウトドア製品を手がけるきっかけとなったのが、
1990 年に販売を開始した「ポケトーチ」の開発です。
当初は工作用ツールとして開発された製品ですが、その強力な噴炎は耐風性にも優れている点から、
アウトドアにも目を向け、そこで「SOTO」ブランドが立ち上がりました。
その後も「安全性・作業性・環境性」をコンセプトに、「SOTO」ブランドを中心として
国内製造による”炎”の総合メーカーとして日本の四季を考え抜いた 純国産の”火”を守り続けています。


  

Posted by natulog@はじめての! at 11:28Comments(0)ブランドヒストリー

2015年06月01日

コロンビア歴史

コロンビアの歴史

半世紀を超えるコロンビアのヒストリー。オレゴンからアウトドアの未来が創られていきます。

1938 - 1960's1960's - 1970's1980's - 1990'sNow & Future
1938 - 1960's  コロンビアの歴史は、オレゴンから始まった。
コロンビアスポーツウェアカンパニーの創始者ポール・ラムフロムは、家族と共に
ドイツから新天地アメリカへと渡ります。新たなる夢を抱いて辿り着いた地は、
オレゴン州ポートランド。

1938年、ラムフロムは小さな帽子問屋の権利を買い取り、 コロンビア川にちなんで、
社名をコロンビアハットカンパニーと命名。コロンビアスポーツウェアカンパニーの
記念すべき第一歩です。

ガート・ボイルは、まだ10代だったこの頃から家業をサポートしています。
そして後にガートの夫となり、コロンビアの社長となるニール・ボイルも、
1950年よりラムフロム家の事業に参加。1960年、ポールとニールは自社での製品生産を始めます。

コロンビアハットカンパニーは、スキーグローブ製造会社コロンビア・マニファクチャリング・カンパニー
と合併し、ここにコロンビアスポーツウェアカンパニーが誕生します。 
1960's - 1970's  コロンビアと
コロンビアのファーストといえるマルチポケットフィッシングベストの開発から4年。 
これからという時期に、ガート・ボイルの父であり、創始者である
ポール・ラムフロムが逝去。そして社長を引き継いだ夫ニールもまた1970年に急逝。

ガートの元に残されたのは3人の子どもと多額の借金でした。彼女は
コロンビアを売却することを決心します。しかし、会社に対する評価は驚くほど低く、
提示された最高額でも
負債を返済するのがやっとという数字でした。
ガートはここで決意を新たにし、まだ大学4年生だった息子ティム・ボイルとともに、
再建の道を歩み始めます。

彼女が目指したのは、細々と家業を続けることではなく、
亡き夫ニールが志半ばにして遂げられなかった拡大戦略を引き継ぎ、
それを成功させることでした。過酷な再建の日々。
しかしコロンビアは着実に基盤を築き上げていきました。
1980's - 1990's  そして、全米ナンバーワンへ。
そして80年代に入ると、いよいよコロンビアの快進撃が始まります。
その第一に挙げられるのが、1982年の“インターチェンジシステム”の登場でした。

それは現在もコロンビアの代表的なアイテムであるスリー・イン・ワン・ジャケットで
実現した画期的な機能。アウタージャケットとインナージャケットを
ジッパーで脱着して3ウェイの着こなしができる“インターチェンジシステム”は、
爆発的な人気を集めました。

そしてこのシステムを採用した“バガブーパーカ”は、
1993年には全米で販売数が100万枚を越えて、米国内アウトドアウェアの
年間最多販売記録を打ち立てるまでになります。

1989年、ついにコロンビアスポーツウェアは、アウトドアウェアブランドとして、
アメリカ国内でシェアNO.1の座に着きました。夫ニールの旅立ちから19年目のことでした。
オリジナリティがメッセージを発信する
コロンビアのオリジナルアイデアはマルチポケットベストや
“インターチェンジシステム”だけではありません。

独自のカッティング“ラジアルスリーブ”、高レベルの防水性と透湿性を
両立させた“オムニテック”、画期的なベンチレーションを実現した
“ラジアルベンチングシステム”など、現在も多くのアイテムに採用されている
オリジナル素材や機能の数々がフィールドへと広がっていきました。

これらすべては、コロンビアのデザイナーが実際にフィールドに立ち、
自分で感じ、人々の声を集めて誕生したものです。ここにはかつて
ガート・ボイルが、初めてフィッシングベストを作った日の思いが
しっかりと生きているのです。

マザー・ボイルとコロンビアスポーツウェアは、アウトドアを愛する
すべての人々に、品質を通じて新しいメッセージを送り続けています。

マザーストーリー

コロンビアのカタログや広告、製品タグなどに登場する女性。
一体誰なんだろうと、不思議に思われている人も
多いのではないでしょうか。実はこの人物こそ、コロンビアにとっての
“マザー”、コロンビアスポーツウェアカンパニーの会長 ガート・ボイル。
彼女はアウトドア界の「発明家」でもあります。今では世界中で
当たり前のように愛用されているマルチポケットフィッシングベスト。
さまざまなツールが収納できるあの便利なベストを世に
送り出したのは他でもない彼女なのです。



「もう40年以上も昔のことです。マルチポケットフィッシングベストは、
夫と彼の友人たちのために作ったんです。そう、ミシンを使って手作りで。
こんなベストを作ってほしいという、ユーザーの要望を直接聞いてね(笑)。
最初は10着くらい作ったと思います。試作品ですか? 作りませんでした。
一度でみんなの希望通りのベストを完成させましたね」



そのフィッシングベストの完成からまもなく、最愛の夫に先立たれた
ガートは苦難に立たされることになりました。

普通の主婦であった彼女が、売却寸前まで追い込まれたコロンビアを
世界のトップブランドにまで成長させた苦労は並大抵ではなかったはずです。

「何か壁にぶつかったり、苦境に立たされた時こそ、人間は
いろいろなことをより早く、より深く学べると思うんです。
私の場合がまさにそうでした。そうした苦境の中でビジネスに関すること
身に付け、実践してきたのです」




その後現在までに、ガート・ボイルはオレゴン州の実業家で
構成されている「オレゴン・エンタープライズ・フォーラム」の
「1994年オレゴン・アントルプルヌール」賞をはじめ、
数々の栄誉を受けることになります。

また「ワーキング・ウーマン」誌が選ぶ“アメリカの女性経営者
トップ50”や、「ビジネス・ウイーク」誌の1994年度ベストマネージャー
のひとりに選ばれるなど、コロンビアの成長と共に、
アメリカを代表するビジネスウーマンになったガート。

しかし広告の中の強面な“マザー”が実は優しい母の素顔を持っている
ということも付け加えておきましょう。それは彼女の
こんな言葉からも伺い知ることができます。

「お子さんが何人もいる家庭で、高いジャケットやコートは
何着も買えないでしょう。だからコロンビアでは適正な価格を
大きなテーマにしています。私はアウトドアの世界をひとりでも
多くの人に楽しんでもらいたいんです」。



広告だけではなく、コロンビアのさまざまなグラフィックに
ガートは登場しています。これは「コロンビアの製品とあなたを、
マザーはちゃんと見守っていますよ」という品質の証でもあるのです。
マザー・ボイルは笑顔で言います。

「モデルなんてご飯みたいなものです。おいしいものはすぐに
思い出せなくても、まずいものは確実に思い出すでしょう」と。
Gertrude Lamfrom Boyle (1937) Columbia's famous first fishing  vest(1960) Columbia Sportswear's  original headquarters building. Downtown Portland in the early 1900s.Columbia River
  

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